大谷選手寄贈のグローブ

メジャーリーグ、日本のセ・パリーグともに開幕!朝のスポーツニュースも賑やかになってきましたね。
先日、姉の家に行った時に、小学生の甥っ子に大谷選手からプレゼントされたグローブがどうなってるのかを聞いてみました。
3学期初日に到着したグローブは、大谷選手のメッセージとともに6年生の教室から順に回され、大騒ぎの中一人ずつはめてみたそう。甥っ子はサッカー派なので、グローブをはめるのは初体験。話題のグローブに触れたことに満足し、あとは大谷選手のサインを誰が上手に書けるか競ったそうです(笑)

グローブについて書かれた学校通信も何枚か見せてくれ、その中に、大谷選手が高校入学時に書き込んだ「目標達成シート」が掲載されていました。『ドラ1、8球団』という大きな目標を達成するために、何をするか考え、具体的な行動を反映させたこのシート。『メンタル』『人間性』『運』の周りに書かれた項目は野球に関係なくすべてに共通することで、甥っ子にもそれを大切にしてほしいし、大人の僕自身としても気持ちの持ち方、指標になるものだと思いました。甥っ子はこのシートを机に貼っていましたよ。

グローブの盗難、破損を恐れて展示のみにし物議をかもした学校もありましたが、甥っ子の学校は、子どもたちからどのように使ったらいいかアイデアを募集し、どんな意見や感想があったか、それぞれへの校長先生のコメントとかも学校通信で紹介していました。子どもたちから「1つは飾る」という意見が出てたのは意外でしたが、校長先生からは「飾るのではなくぼろぼろになるまで使いたいですね」と。最終、職員室の一角に保管場所を設け、学年で使える曜日・使う場所・時間帯を決め、使いたい子が自由に使っているそうです。

大谷選手がグローブを寄贈してくれたことで、野球に興味を持った子も居るだろうけど、教室にグローブが届いたこと自体がみんなで共有できる思い出のひとつになっただろうし、テレビの中のスーパースターとの繋がりを感じられた瞬間。そして目標達成シートを見たり、グローブの使い方を考えたことも子どもたちにたくさん刺激を与えてくれたんじゃないかと思います。

あと3、4年もすれば、このグローブに触れた高校球児が甲子園にやってくる。
それも楽しみだけど、今は早く大谷選手自身が野球に集中できることを祈るばかり。今こそあの目標達成シートに書いた「メンタル」で、次なる目標「ワールドシーズン優勝」に挑む姿は、子どもたちにもっと刺激を与えてくれるだろうし、僕も楽しみで仕方ない。

今年の正月

サッカーワールドカップの余韻も束の間、あっという間に正月も終わり、2月も半ばに。

今年の正月は、僕にとって初めての経験、妻の実家・関西で年を越しました。コロナ禍での結婚だったので、義父母に会うのは家族挙式以来。最初こそ緊張したものの、ざっくばらんで飾らない性格の両親に僕も安心し、ゆったりと過ごさせてもらいました。
妻の実家では、大晦日は『紅白歌合戦』を家族で見ながら年越しそばを食べるのが定番らしく、久しぶりに『紅白』をガッツリと観賞。すると、僕が好きな羽生結弦さんが審査員席に。

プロ転向の決意表明を聞いたときは、近い将来『4回転アクセル』を決めて表彰台に立つ姿を勝手に想像していた身としては寂しい気持ちでいっぱいになったけど、番組内で改めて「これからもっともっと練習をたくさんして、またさらに進化したなと思っていただけるように頑張っていきたい」と決意を語る姿に、表舞台から去ってしまったのではなくまだ進化・挑戦は続いているのだと胸がすごく熱くなり、見入ってしまいました。
審査員席で優しく黒柳さんをフォローする姿、どの審査員よりも高い位置でペンライトを振る姿、大ファンのback numberの楽曲に目を潤ませる姿…。気づけば出場する歌手よりも、心からステージを楽しむ羽生結弦さんの姿ばかり追いかけていたような。
すると、そんな僕の様子を見たお義母さんが「そんなに好きなら、そこの『弓弦羽神社』にお詣りせなあかん。ファンの聖地やで」と。

翌日、初めての『白みそのお雑煮』をいただいた後、初詣へ向かいました。
『弓弦羽神社』はスポーツや芸術に縁がある神社で、必勝祈願をする人が多いようだったけど、今年は東京マラソン落選。個人的には差し迫って必勝祈願することはなかったので、スポーツ振興に携わるものとして僕なりのこれからの仕事に対する決意を絵馬に書き奉納してきました。

2023年もスポーツイベントの連続です。世界的なものでは、3月にWBC・世界フィギュア、7月にFIFA女子ワールドカップ、9月にアジア競技大会・ラグビーワールドカップ…。
今年は新型コロナウィルスの影響で延期されていたイベントの再開や、声出し応援なども緩和されそう。スポーツをするのも観るのも、心から楽しめそうですね。

フィギュアスケートの話

ついこの間、東京オリンピックが終わったところと思っていたら、いつの間にか冬のオリンピックでした。
同じ年に開催されたわけではないのに、スパンが短すぎて、1年に夏も冬もオリンピックが開催されたような、変な感じです。

夏のオリンピック、冬のオリンピックと、両方合わせるとものすごい数の競技がありますが、僕が一番好きな競技は、実はフィギュアスケートです。
僕自身は、フィギュアスケートの経験はおろか、友達とスケートリンクに遊びに行ったときはまともに立つことすらできず、スケートはどちらかというと苦手なスポーツです。
それに選手の演技を見ていても、トリプルアクセルやらルッツやら、技の区別は全くつきません。知識もありません。
でもテレビでフィギュアスケートの大会とかがやっていると、なぜか見てしまうのです。

たぶんフィギュアスケートを観るのが好きになったきっかけは、ソチオリンピックでの浅田真央選手の演技だったと思います。
確か日本ではライブ放送が夜中だったと思うのですが、当時、テレビにかじりついて観戦し、一人で号泣した記憶があります。
ボロボロだったショートプログラムからの、フリープログラム。彼女にとっては、それが最後のオリンピックでした。
最後のジャンプの着地の際に力強く前に差し出した手、そして演技終了後、涙をこらえて上を向く彼女の姿が、未だに脳裏に焼き付いています。
あれからもう8年経っているというのに、このブログを書いている今も、思い出し泣きしそうです。

浅田真央選手引退後は、すっかり羽生結弦選手のファンになっています。
彼のプーさん好きや、ちょっとキザったい行動なんかをみると、恥ずかしくなってしまうのですが(笑)、とはいえ演技中の彼の表情なんかは、男の僕でも、かっこいいなと思ってしまいます。
普段はどちらかというと気弱そうな、大人しそうな感じに見えるのに、演技中はガラリと顔が変わりますよね。まさに『演技』というか。
記憶にある人も多いと思いますが、金メダルを獲得した、平昌オリンピックの陰陽師の演技は本当に素晴らしかった…
なんて技の名前かわかりませんが、片足を伸ばしてしゃがんでいるときの、挑戦的な表情がすごく印象に残っています。

そんな彼が、こないだの北京オリンピックで新たな偉業を成し遂げました。
そう、前人未到の4回転アクセルです。着地自体は失敗してしまいましたが、4回転アクセルとしての判定が史上初めてつきました。
彼の挑戦する心意気にやられながら、今後のフィギュアスケート界がますますおもしろくなっていきそうだなと、期待に胸が膨らみます。

コロナ禍での東京オリンピック

少し前に、東京2020がありました。そう、2021年に。
2年以上も投稿をサボっている間に、世の中はとんでもないことになってしまいました。

コロナウイルスの蔓延で、行動制限がかかり、当たり前に人と会ったり、飲みに行ったりできなくなる時代になりました。外出する際にはマスクをつけるのが当然。マスクを着用していないと、お店に入ることすらできません。
そんな異例の事態で迎えた2020年夏。世界各国の選手や観客を集めて、オリンピックを開催できるような状態では全くありませんでした。
オリンピック史上初となる、延期。「東京2020」という名のまま、翌年2021年に無観客でオリンピックを決行するという、歴史に残るオリンピックとなりました。

僕はスポーツ庁に勤務していますが、東京オリンピックの開催に直接関わる仕事はしていなかったため、ただのイチ国民として、このオリンピックの感想を残しておこうと思います。

このコロナ禍で開催を決行したことについては、賛否両論あるのでしょうが、僕個人としてはとりあえず開催できてよかったんだろうなと思っています。
様々な観点があると思いますが、4年間、血反吐を吐く思いで必死に頑張ってきた選手のことを思うと、やれ中止だやれ延期だと、直前まで最終決定がなされない中での不安定な状態は、相当なストレスと負担だったかと想像します。
日本の選手に限らず、海外の選手も含め、メダリストたちが声を揃えて、このような環境下でのオリンピック開催に感謝を述べているのを見ると、なんとも言えない気持ちが毎回こみ上げてきました。
このオリンピックは、日本じゃなければできなかったという話もありますが、そうであるならば、僕は日本人であることを誇りに思います。

一番印象に残っている競技は、やはり卓球でしょうか…。
僕は普段全く卓球をしませんし、試合を見たりすることもないですが、水谷隼選手・伊藤美誠選手の混合ダブルスはテレビにかじりついて観戦しました。ただのミーハーです。史上初の金メダル。歴史的瞬間を見させてもらいました。
あと開会式のピクトグラム、すごく好きだったな。

本庁に戻りました

地方都市から本庁に戻って2か月が経ちました。さすがに都内と地方都市では空気や時間の流れ方が全然違い、しばらく感覚が戻るまでは苦労しました。特に朝のラッシュは・・(苦笑)

僕と入れ違いに地方都市へ行く同期は「地方なんて何にもないから早く戻ってきたい」と嘆いていましたが、自分もその気持ちはとてもよくわかるし、でも行けばこれまで知らなかったこと、学べることは沢山あるので前向きに捉えるといいよとアドバイス。とりあえず買ったまま手つかずの本を全部送って、読破するのが当面の予定と言っていました。たしかに、地方都市は読書や勉強がはかどります。

ここ最近ようやく生活が落ち着いてきたので、ランニングを再開しようかと考えています。赴任先は車通りがさほどなく、大きい公園も近くにあったのでランニングしやすい環境でした。特に公園は車や信号を気にせずに走る事に集中できるので、僕は公園を走ることが多かったです。

都内で安全に、集中して走るなら皇居や大きな公園(駒沢オリンピック公園、代々木公園、小金井公園とか?)、荒川・隅田川沿いでしょうか。ジムに行けばランニングマシンがありますが、僕は季節や風を感じながら走りたいので、ジムという選択肢はありません。今度の休日、雨でなければ、まずは皇居に行ってみようと思います。

出向先との別れと初めてのフルマラソン

最後の投稿から1年以上も経ちましたが、出向先の地方都市を離れることになりましたので久しぶりに投稿します。

先日、来年度の人事異動が発表されまして、僕は4月からスポーツ庁の本庁に戻ることになりました。東京オリンピック・パラリンピックまで残り500日を切り、スポーツ庁としても本格的な準備に向けて人手が必要なのだと思います。3年前に初めてこの町に来たときは不便な生活環境にカルチャーショックを受け、「早く東京に帰りたい」と思うほどでした。でも、3年も住んでみると、東京にはない自然や文化があって魅力的なところが見えてきて、離れるのが少し寂しいです。

この3年間はマラソン大会の企画・運営を中心に市のスポーツ事業の活性化に取り組みました。ハード面では老朽化した体育館やプールの改修を行うとともに、最新のトレーニングマシーンも購入しました。ソフト面では小中学生の体力を上げるために、富山県で20年くらい行われている「みんなでチャレンジ3015」を参考にした体力向上プログラムを始めました。こういった取り組みの効果が出たかは分かりませんが、町の健康寿命が長くなったようですし、小中学生の体力が初めて全国平均を上回ったようです。スポーツが苦手な僕が、縁もゆかりもなかった地方都市のスポーツ事業を活性化できるなんて驚きです。

市民にスポーツを奨励している立場なので、僕もランニングを始めました。運動をするのはかなり久しぶりで、大きな公園で走っていると女性やご年配の市民ランナーによく抜かれます。でも、「生涯スポーツは自分のペースで無理することなく続けることが大事だ」と仕事で学びましたので、マイペースで走り続けています。

そして、2週間前には初めてフルマラソンを完走しました。地元の大会は運営の仕事で参加できないので、抽選で当たった東京マラソンを選びました。冷たい雨で体が冷えたせいで30km以降は足が動かなくて何度も立ち止まったり、歩いたりしましたが、5時間32分でゴールしました。東京マラソンの日は多くの道路が封鎖されて、地下鉄がかなり混むので、スポーツ庁に異動する前は「なんで東京のど真ん中でマラソンをするんだ?」と思っていました。しかし、実際に走ってみると東京の街並みがよく分かって楽しかったです。

また、地元の大会と同様にランナーやスタッフ、沿道の地域住民が一体になっていると感じました。やっぱりスポーツの力はすごいですね。来年の東京オリンピック・パラリンピックでもこのような感動を生み出せるように4月からの仕事も頑張ります。

そして今年も

今年もマラソン大会が行われた。今年も天気は曇り。暑すぎず、寒すぎない、走るにはちょうど良い天気だった。

昨年のマラソン大会後、出店者や市民から「来年もまたやってほしい!」と大盛況だったので、予算会議でマラソン大会の予算を確保し、春から出店交渉や準備を進めた。今年は市民も楽しめるようにマラソン講座を設けたり、出店ブースも増やした。でも、まだまだできることはあると思う。

改めてマラソンについて調べてみたが、マラソンは運動神経に自信がなくても気軽に始められるということで、幅広い世代に人気の高いスポーツと知った。確かに、マラソン大会を開催して「こんなにたくさんの人が走るのか!」と驚いたが、改めてマラソンへの人気の高さを感じることができた。県外からわざわざ来た人もそうだが、先輩のお父さんだってそうだ。普段は全然運動なんかしていなかったのに「市がマラソン大会をするなら!」言って、同級生と一緒に二年連続で大会に参加してくれた。

『スポーツとまちづくり』(http://sports-townplanning.com/)というサイトにあるように、地元への経済効果も想像以上だった。スポーツが地域振興に貢献していることを、今更ながら改めて実感した。

春から市内のお店に行っては出店交渉をし、マラソン大会告知のためにポスターとチラシを持って行ってお店に貼ってもらうようお願いをした。中には断られ、相手にしてもらえないお店もあったが、基本的には「いいよいいよ」「市がやるイベントなら協力する」「私たちもお客さんに来てもらいたいしね」と好意的だった。前日から町はランナーでにぎわい、経済効果もあった。

教育を良くしていきたいとの思いで選んだ進路で、地方都市に飛ばされたときは落胆したが、このような経験ができるとは全く予想もしていなかった。今までスポーツはあまり得意ではなく避け続けていたけど、これを機にマラソンを始めてみても悪くないかもしれない。何よりここは空気がおいしく、走っていても気持ちよさそうだ。そしていつか、マラソン大会に出てみようと思う。

マラソン大会当日

マラソン大会当日は曇り。雨じゃなかったのが幸いだ。僕はマラソン参加受付と、給水所でランナーに飲み物を配る係を担当することになった。また、市のPRのために、受付会場に地域の特産品や名物料理を振る舞う露店を出店した。早朝から準備の人で会場はにぎわっていた。僕は会場で準備をする人々を見ながら、参加者に地域のことを知ってもらいたい。地域振興につなげたい。そう考えながら日々お店の人、地域の人の協力のもとで大会の準備を進めてきた日々を振り返っていた。

最終的に20近くの店が協力してくださり、どの店も大盛況だった。協力してくださった方からは「大変だし最初はあまり店を出したくなかったけど出してよかったよ」との声をいただき、マラソン大会に参加した人からは「地元の食を楽しめてよかった」「新鮮な野菜を安い値段で買えた」という会話を耳にし、参加者にも喜んでもらえてよかったとホッとした。

受付終了後に給水所へ移動。いつもの日曜日とは違う町の雰囲気に、僕は不思議とドキドキした。沿道では沢山の人が駆けつけ、ランナーに向かって「がんばれ~」と手を振ってエールを送った。僕はランナーに飲み物を渡してったが、中には市役所の職員や、大会の準備を通じて知り合った人やその家族もいた。一緒に飲み物を配った先輩職員は「親父が同級生と一緒に走るって申し込みしたんだけど、大丈夫か心配で・・」とハラハラしながら見守っていたが、最後まで怪我無く走り切ったようだった。

初めてのマラソン大会は定員以上の申込みがあり、たくさんの人が町に訪れ、成功のうちに終わった。普段は寂しい町が、マラソン大会というイベントを通して確かに一体化した。「健康寿命の長い町」は、こういうことなんだろうなとふと思った。そして、初めて自分が企画から携わったイベントが無事に開催されて、喜んでくれる人がいることが感慨深かった。

準備、準備、準備

春に企画したマラソン大会は、11月の第三日曜日に開催することになった。

東京にいた時にはイベントの企画・運営をしたことがなかった。そのうえ見知らぬ土地で、初めてのマラソン大会を開催することになり、不安要素も沢山あった。当日の天候。怪我、事故は無いか。参加者は集まるのか。出店してくれるお店はあるのか。こうした不安には一つ一つ向き合い対応していった。

天候についてはどうしようもない。予備日を設けるか協議したが、予備日は設けず雨天決行で決まった。

怪我、事故は起こさないように準備をしっかり行い、またプログラムに準備運動を入れ、走り終わった人にはクールダウンの運動を呼びかけるように決めた。

参加者集めについてはマラソン好きの職員が「ランネット」というサイトを活用することを提案してくれた。「ランネットでマラソン大会を検索できて、しかも応募もできるからかなり便利だよ。ランネットに掲載してみたら」と教えてくれたおかげで、県内だけでなく県外からも多くのランナーから参加申し込みが入った。また、広報がSNSを活用してマラソン大会の情報を流したり、ケーブルテレビでマラソン大会のアピールを積極的に行ったのもかなり効果的だった。

大会前日。普段そこまで人通りの多くないこの町に、全国各地から数千人の参加者が集まって町は活気づいていた。駅前の商店街は英気を養うランナーたちで溢れかえり、この日は市内のホテルもほとんどが満室になったようだ。

前日は朝からずっと慌ただしく動いていた。会場確認、備品の運搬、出店者への挨拶や場所誘導、準備の手伝いなど、あっという間に時間は過ぎていた。

自分が初めて企画から携わったマラソン大会。無事に開催されるか、事故無く、みんなに楽しんでもらえるか気になってなかなか眠れなかった。

初めてのイベント企画

2016年春。僕はとある地方都市に飛ばされ、そこで初めて担当した仕事がマラソン大会の企画・実行委員の仕事だった。朝の朝礼で市長が「スローガンである健康寿命の長い町を実現するため、マラソン大会を開催しよう」と言ったのがきっかけだ。

市長の言うとおり、この市が掲げるスローガンの1つに「健康寿命の長い町」というものがある。老若男女問わず健康に過ごせる町づくりを軸のひとつとして掲げているということを、実はこの時初めて知った。(もちろん、その後他のスローガンも確認した)

マラソン大会を企画・運営するための実行委員会が結成され、スポーツ振興課の職員はその中心に、もちろん僕も実行委員の一員に加わった。東京にいた時はイベントを企画・運営するということがなかったので、慣れない環境に飛び込んだばかりの僕にとって不安と、わからないことの連続であった。

マラソン大会に限らず、イベントを開催するには様々な人たちの協力を取り付ける必要がある。それに市が主催するとなると税金を使うことになり、イベントで使える予算は限りがあった。そして、その予算以上の地域貢献につなげる内容にしなければならない。

僕が何よりも大変だったのは地域の人たちとのコミュニケーションだった。自分とは違う環境で育ち、違う論理で動いている人と関わることはとてもストレスで、初めのうちは衝突することもあった。『なぜ僕の言っていることがわからないんだ?!』という気持ちで相手に接していたが、これではいけないと、自分から相手のことを理解しようと考えを改めた。『なぜ、この人はこう言っているんだろう?』と相手のことを理解しようと考え、行動した結果、徐々にコミュニケーションが上手く取れるようになった。

この地域の人たちは『こいつは自分たちの仲間だ』と思ったら最大限に協力してくれる。村社会的な考えに初めは面食らったが、相手を理解し、行動したことで問題を打破できた。

東京から出なかったらできなかったであろう濃密な人間関係を築いた僕は、今では市内を歩くと「あ、●●さん!」と挨拶や会話をする人が増え、時には「これ持ってって!」と野菜や手料理をもらうことも。東京ではありえないことが、ここでは日々あたりまえに繰り広げられている。